タイトルである「関心領域」は、アウシュビッツ強制収容所群を囲む40平方キロメートルの土地を指す、ナチス親衛隊による言葉です。
歴史の授業で教室に充満したあの絶望感、地獄のガス室を思った最低の時間を各々の胸に携え、アウシュビッツの“理由のなさ”を感じる映画「関心領域」を解説します。
可憐な花の咲きほこる邸宅で、無意識下の加害に震えましょう…。
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この記事には映画の結末や重要なネタバレを含む可能性があります。未鑑賞の方はご注意ください。
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公開日 | 2024/5/24 |
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監督 | ジョナサン・グレイザー |
原作 | マーティン・エイミス |
脚本 | ジョナサン・グレイザー |
キャスト | クリスティアン・フリーデル ザンドラ・ヒュラー ほか |
音楽 | ミカ・レヴィ ジョニー・バーン ターン・ウィラーズ |
上映時間 | 1時間45分 |
配給 | A24 ハピネットファントム・スタジオ(日本) |
公式サイト | 「関心領域」公式サイト |
上映劇場 | 「関心領域」上映館 |
【関心領域】映画のネタバレあらすじ
「関心領域」映画のあらすじです。
ネタバレを含むのでご注意ください。
起:ヘス家の日常
勇ましく流れる川辺で、目に映る全てのものが自分たちを祝福しているとでも言わんばかりにくつろぐ一家の姿がありました。
白ブリーフ一丁でせせらぎの心地良さに浸るルドルフ・ヘス(クリスティアン・フリーデル)は、一家の長。
たくさんの子どもたちに囲まれて、妻のヘートヴィヒ・ヘス(ザンドラ・ヒュラー)もまた、満足気に微笑みました。
数多の花が植えられた自宅へと戻ると、“ありふれた”一家は寝床へと向かいます。
家族団らんを成功させ、遊び疲れた子どもたちは眠りに落ち、夫婦は見つめ合い愛を確かめるかけがえのない夜。
ただひとつの違和感は、銃声と、人のものとも獣のものともつかない断末魔が夜通し鳴り響いていることでした。
承:ルドルフの誕生日
ヘス家と壁一枚隔てた“向こう側”には、アウシュビッツ強制収容所がありました。
収容所には、当時迫害を受け「人間ではない」とされていた、ユダヤ人を中心とした被差別人種が詰めこまれ、日々殺されていたのです。
ルドルフは、収容所の所長を務めており、重要な会議を含む業務の一部を自宅でおこなっていました。
まだ幼く、学校へ入る前の子どもが自室にいることにも、たくさんの使用人が行き来することにも構わず、ルドルフは新設する焼却炉について所員たちと会議に興じます。
収容者たちを“荷”と呼び、いかに効率よく、より多くの“荷”を始末できるか真剣に話し合うルドルフと所員たち。
“無事”名案にたどりついた所員たちは、おもむろにルドルフを称えます。
「お誕生日おめでとうございます!」
満面の笑みでルドルフの誕生日を祝う所員たちの背後では、アウシュビッツ強制収容所の煙突から噴き出す“命の灰”が黒々と空を覆っていました。
転:ルドルフの昇進
ヘス家の庭では洗い立ての真っ白なタオルやハンカチ、テーブルクロスが物干しロープの上、所せましと揺られています。
晴れが続く暑い夏の日、初めてヘス家に訪れた母親を案内するヘートヴィヒは上機嫌でした。
色とりどりの花に彩られた大きな庭や、立派な家具、整えられた部屋、生き生きと遊ぶ子どもたち、その全てを母親に見せつけるように振る舞うヘートヴィヒ。
家具はユダヤ人から奪ったものです。
ヘートヴィヒの母は、「幸せそう」と心の底から娘の境遇に安堵してみせます。
近所に住む仲間とその子どもたちも集まって、母とともに裏庭のプールで夏の日差しを浴びるヘートヴィヒ。
すると、ルドルフが唐突に「昇進が決まった、引っ越そう」というのです。
ヘートヴィヒは怒り心頭で憎しみをあらわにしながら、「私は子どもとここで暮らす」とルドルフに単身赴任をそそのかします。
ガス室のとなりで、洗濯物に死のにおい纏わせてでもヘートヴィヒが欲しいもの、それは現状維持という束の間の安心
結:関心領域
単身赴任をしていたルドルフは、雪の舞う季節、ヘートヴィヒと子どもたちの待つ邸宅へと戻れることになりました。
ルドルフは、喜び勇んでヘートヴィヒに電話をかけます。
てっきり喜んでもらえると思っていたルドルフでしたが、ヘートヴィヒの反応は薄く、もはや自分を受け入れる気などないよう。
ヘートヴィヒはといえば、相変わらず使用人たちに囲まれ、子どもたちと一緒に以前と変わらぬ生活をしていました。
ルドルフと離れて暮らし始めたときは寂しがっていたのに、順応するのが早いヘートヴィヒ。だからこそ壁の横で暮らせるのでしょう
自分が妻の関心領域(重要区域)になくなったと感じたルドルフは、今まで「家族のために」と仕えてきた収容所での使命について、ふと考えを巡らせてしまいます。
歩を進めようにも、急な吐き気をもよおしてしまうルドルフ。
吐き気の理由にたどり着けないルドルフを現すかのように、中身のない吐き気は吐瀉物をともなわず、スッキリとも、釈然ともしないルドルフはひたすらにえずくしかありませんでした。
【関心領域】映画のネタバレ解説:原作本や実話なのかについて
「関心領域」映画についてのネタバレをご紹介します。
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「関心領域」映画には原作本がある?
原作は同名小説であるマーティン・エイミス著「関心領域」です。
原作読んだんですけど、映画とほとんど関係ないんですよ。でも時代背景や、ホロコーストというものの捉え方は通底していました。“吐き気”というワードもよく見たかな
原作で心に残った箇所をご紹介します。
おそらく、何が起こったのか理解することはできないし、ましてや理解するべきではありません。理解することは正当化することだとさえ言えるからです。
ーマーティン・エイミス「関心領域」
https://www.hayakawa-online.co.jp/shopdetail/000000015822/
以上の記述には、映画版とも非常に通ずる部分を感じました。ヒトラー、ヒムラーなどが抱いた憎しみに、合理性などないのです。
原作では、死と性欲とが交錯する気色悪さが描かれます。
映画版は、いわゆる「狂った世界」のような側面を排除し、地道に生活を描くことで、より映画的なドス黒さを伴った表現になっていると思います。
あと1つ原作でハッとしたのですが、当時たばこを吸う女性というのは稀だったのだそう。“お控えください”的ムードの中で、しかもあの壁の横で、たばこをくゆらせていたヘートヴィヒ
「関心領域」映画は実話なのか…
撮影はアウシュビッツ強制収容所の近くで行われたそうですが、実際のヘス家は劣化が激しく、おなじ場所にセットの建築は出来なかったのだそう。
それでも、ルドルフやヘートヴィヒが生きた空気の中で、収容所を視界に感じながら撮影は進められました。
ルドルフ・ヘスおよびヘートヴィヒ・ヘスは実在した人物です。
本作をつくるためにジョナサン・グレイザー監督はリサーチに2年を費やしたそう。
リサーチの中で、ヘス家に仕えていた人々と会う機会もあり、リアリティの肉付けがなされていったのだとか
グレイザー監督自身、ユダヤ人のルーツをもっていることもあり、ホロコーストの存在を否定する意見に対し憤りをあらわにしています。
劇中で描かれていたことのうち、おぞましい事象のほとんどが実話です。
「関心領域」の原作では“ゾンダーコマンド”と呼ばれた、同胞の死体処理を請け負ったユダヤ人についての「真実」も描かれていました。
わたしたちの仕事の大半は、死んだ人たちのなかでおこなう作業です。
裁ちばさみ、ペンチと小槌、ベンゼン入りのバケツ、レードル、研磨機を使います。
さらに、生きている人たちのなかを動きまわったりもします。
そしてこんなことを言います、「さあ、おいで、ちっちゃな水兵さん。脱いだ服を掛けて。番号を覚えておくんだよ。きみは八十三番ね!」
ーマーティン・エイミス「関心領域」
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脱いだ服の持ち主がもう戻らないことを知りながら、おなじユダヤ人を油断させるための役回りを強いられた人々。
私ごときの考えや気持ちなど及ばない場所にある絶望
ゾンダーコマンドを、本作とは違う角度からの視覚トリックで描いたネメシュ・ラースロ一監督「サウルの息子」も傑作であり、紛れもない真実です。
「関心領域」主人公で実在するルドルフ・ヘスとは
本作の主人公であるルドルフ・ヘス(ルドルフ・フランツ・フェルディナント・ヘス)は、実際にアウシュビッツ強制収容所の所長を務めた人物です。
おなじく“ルドルフ・ヘス”という名でナチ党副総統だった人物が存在しますが、つづりの違う別人なのだそう。
原作で描かれる、強制収容所所長のポール・ドールこそルドルフをモデルとして描かれたキャラクター。
映画にも、ユダヤ人を自室に呼んで性処理をさせるカットがありましたが、原作で描かれるポールも色欲と切り離すことはできません。
誰とどこまでの関係があったかは定かではありませんが、実際のルドルフにも女性の側近が多くいました。
ちなみに劇中でヘートヴィヒが「ソフィー!」と声を荒らげるカットが多くありましたが、アラン・J・パクラ監督『ソフィーの選択』にてメリル・ストリープが演じたソフィーという人物への目配せと言われています
ルドルフとヘートヴィヒは、実際にアウシュビッツ強制収容所の隣で暮らしていました。
壁一枚隔てた場所にある苦しみに気付けない人間が、モンスターであるのか、あるいはれっきとした人間であるのか、映画「関心領域」はルドルフたちの姿を通して観客に問いかけていたように感じます。
わたしは正常な欲求を持った正常な人間なのだから。わたしはあらゆる点で正常だ。
だれもこのことをわかっていないようだが。
パウル・ドルはあらゆる点で正常だ。
ーマーティン・エイミス「関心領域」
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【関心領域】映画の印象に残ったシーン・場面4選(ネタバレあり)
「関心領域」映画を実際に鑑賞して印象に残ったシーンを4つご紹介します。
①幸せそうな家族
“どこからどう見ても幸せそうな家族”。
庭に横たわる「壁」を見るまで観客は、あまりの幸福に退屈さを覚えるほどの眩しい家族を見せつけられます。
そして「壁」とルドルフ、そしてヘートヴィヒとの関係を知ったとてなお、ヘス家の幸福は覆らないのです。
収容所の存在、そして“荷”を処分することに疑問を持たない彼らにとって、「壁」は単なる壁にすぎません。
国の命令に従っているだけのルドルフに罪悪感はありませんし、熱心に働く夫を誇りに思うだけのヘートヴィヒなのです。
正義は環境でつくられる。何億通りの正義を戦わせても無意味
そして、夫婦の関心領域に子どもはいないように見えました。
あくまで理想像としての“シュッサン”“コソダテ”“カゾク”をたしなむ素敵な私。
ヘートヴィヒにとってはルドルフも、子どもたちも書き割りの絵にすぎず、その無関心は「壁」についても当てはまるのでしょう。
「見えなければいい」と壁の前に植物を植えまくるヘートヴィヒには、「殺風景な壁」くらいにしか見えてないデッドライン。
壁の前を激昂しながら歩くヘートヴィヒの印象的なビジュアルは、「壁の外になど全く思いを馳せることのない」彼女の日常を捉えていました。
②子どもたちのストレス
中身を伴わない「理想の夫婦」のもと育つ子どもたちは、大人が奪ってきたユダヤ人の持ち物を享受するほかありません。
手元で転がす他人の歯は、おもちゃである前は罪もなく焼かれた被差別人種の生きた証であったことなど、子どもたちは知らないのです。
ヘートヴィヒが、ユダヤ人から奪った毛皮のコートを「汚い」と、同じくユダヤ人の使用人に洗わせるシーンには寒気がします。
ユダヤ人から奪ったものを分け与えられ、拒否することもできず受け取るしかない、同胞の使用人たちの心中を思うと吐き気がするほど
「行ってきます」の代わりに「ハイル、ヒトラー(ヒトラー万歳)」と唱えさせられる子どもたちに、世界や社会への疑問をもつ隙があったでしょうか。
壁の向こうから聞こえる怒号のマネをして遊ぶことが、邪悪であると私には思えませんでした。
何の罪もなく、親を選べない子どもたちもまた、ルドルフとヘートヴィヒの被害者と感じます。
兄弟をいじめて遊ぶようになった長男だって、そうなるべく育てられたのであって…環境って残酷極まりないです
③長靴の血
ルドルフが、ヘス家で会議を行うシーンで、部下を自宅へ招き入れながら「くつは脱がなくていい」と制するシーンがありました。
しかし当のルドルフは、玄関先で長ぐつを脱ぎ靴下姿で家に入るのです。
玄関先に放置された長ぐつを洗うのはもちろん、ユダヤ人の使用人。同胞たちの血を洗い流す日々はどんなものだったのか
罪悪感がないとはいえ、自分の職務が残虐であることくらいは勘づいていたはずのルドルフ。
「子どもたちに、自分が直接手を下していると思われなければいい」という気持ちの表れではないかと思うのです。
前述したユダヤ人女性との行為のあと、抱きかかえた娘に「汗ばんでる」と言われるルドルフ。普段どれだけ“痕跡”に注意しているかわかる描写
家族を養うため背に腹は変えられず、消極的にすら見える態度で「壁内」の指揮をとるルドルフの描かれ方が、恐ろしさを倍増させていました。
きっとルドルフが感じたかもしれないのは、罪悪感よりも被害者意識なのかもしれない。えぐすぎる
④隣とはいえ“外”
本編ではルドルフが“命令を待つ”姿が度々映し出されます。
立場上とはいえ、ルドルフの自主性のなさは生来のものであるようにも取れました。
「ヒトラーに聞いてみれば?」みたいなやばいノリの妻・ヘートヴィヒをたしなめるでもなく、ただやり過ごすのにも違和感がありました
ヒトラーの下、自我など忘れなければこなせない職務の数々は想像に難くないですが、すべてを自分の“外”と捉えているルドルフ。
ルドルフにとって、視界に入らなければアウシュビッツはがらんどうであり、壁は仕切りでしかないのです。
家族と離れたことで、うっかり己と対峙してしまったルドルフの肉体を襲ったのが、本能的な吐き気だったように感じました。
何も出ない吐き気ってつらいですよね。因果応報としては甘すぎるけど
【関心領域】映画を実際に鑑賞した感想と評価(ネタバレあり)
最後に「関心領域」映画を実際に鑑賞した感想と評価についてご紹介します。
ストーリー展開
展開は非常にわかりにくいです。
否、映っているのは知らない家族のホームビデオ的なもので、幸せそうなことくらいはわかるのですが、「なぜ幸せそうなのかわからない」という恐ろしさ。
前情報として得たアウシュビッツ強制収容所との関係性が、観客の脳をかき回します。
けれど、「観客は想像し尽くせる」と信じきった製作陣による、自由奔放な映画づくりを感じて嬉しくもありました。
家族のストーリーなどあって無いようなもので、そのことは、映像として映し出されることのないアウシュビッツの中で行われている虐殺にも共通しています。
理由のない虐殺と、理由のない行為と理由のない幸福。
相容れないはずのものが、なぜか共存している画面に酔って、観客まで吐き気がしてくるような残酷さでした。
ルドルフが、数多ある自宅の部屋を周りながら扉を閉め、電気を消し鍵をかけるという描写があります。
ある部屋では上着を脱ぎ、またある部屋ではたばこの吸い殻をもみ、それら自分の“荷”を放置しては閉じ、電気を消し施錠する。
ルドルフは一連の行動の中で、「置いてきたものから忘れていっている」ように感じました。
明かりを消し、鍵をかければ、まるで部屋ごと消滅してしまうかのように。
収容所とも、日々同じように距離をとっていたんじゃないかな
どんな想像をするにせよ、心に迫るのは吐き気を伴う憎悪の気持ちでしたが、観客各々に託すようなストーリー展開が魅力的でした。
映像・音楽に対する評価
連続的に“壁の向こう”から聞こえる断末魔に字幕をつけない演出が、「恐ろしさを増幅させる」という意味でとても良かったです。
ヘス家とともに、字幕のない死に際を真隣に感じ続けた先には、なんとヘス家の面々同様の「慣れ」がありました。
だんだんBGMみたいに聞こえてきてしまう恐怖
音の演出にしびれた後は、サーモグラフィーを思わせる映像表現に戸惑ったり、急に現れる現代のアウシュビッツのカットに突き放されたりします。
サーモグラフィーについては「熱」を表現しているそうだけど、生命力ある彼女が善意で撒いたりんごがきっかけで、収容者が殺されるシーンもあったよね…正義ってなんなんだ
ストーリー展開に続き、各々で考えを巡らせるゆとりのある突飛な映像表現も豊かでした。
たばこを吸うルドルフと、背後の煙突から湧きあがる煙とのコントラストなんかも、美しいからこそ“煙の出どころ”を思うとキツい
グロシーンはあったのか?
直接の虐殺シーンは、初稿のうちはあったそうなのですが、完成した映画からは全くなくなっています。
視覚的なグロシーンというのはありませんが、ないからこそ観客が、被害者と加害者、どちらとものメンタル面に沈んで思考してしまう鬼設定。
人殺しの化け物として突き放すこともできず、ルドルフたちが加害性に気付いたときのことを考えると身につまされるという仕組みは、さながら恐怖映画です。
近年大ヒットした森達也監督「福田村事件」の中でも描かれた、“加害性に気付いた加害者”の咆哮。私たちはいつでも加害側になり得るということをじっくり考えるターンなのかも
グロさというのは目だけで感じるものではないのだと新発見しました。
でも視覚表現はマイルドですよ。
戦争映画としての評価
肉体“だけは”しっかりと傷ついているルドルフに、戦争が人体に与える影響を見ました。
被害者を思えば加害者の痛みなど取るに足らない、という、一定の方角にある感情は一旦置いておきます
加害者というものを、感情をともなわない事象として、有り様として“ただ描く”ことで、観客と公平な立場をとろうとする製作陣の思いが伺えました。
事象として起こる虐殺は、ガス室内部のおぞましさを知らない観客たちを、ギリギリ想像し得る壁の“こちら側”、つまりヘス家へと留まらせます。
ほとんどの場合、(真相はべつとして)加害者のないところに、被害者は生まれないと思うのです。
ヘス家の側にいる観客のすべてが、無自覚のうちに加害者となり得るのだと、映画「関心領域」はひそかに語ります。
作品のあり方そのものの中に、ホロコーストを語り継ぐという使命だけでなく、未来の加害者を減らす努力を見ました。
ルドルフがえずくシーンでは、かつての虐殺者に罪の意識が芽生えるまでを追った傑作ドキュメンタリー映画「アクト・オブ・キリング」を思い返しました
残酷な描写こそないものの、戦争映画としての恐ろしさはかえって強かったように感じます。
再鑑賞
勘弁してくれ。もういいです
一度でしっかり、自分にひそむ加害性を認識し直しました。
【関心領域】映画のネタバレあらすじ:まとめ
緊張とともに劇場へ行き、真っ暗な画面を流れる“死の音”に慄いていたはずなのに、ヘス家の平凡さに退屈して眠気と戦っていた私。
私が陥った状態こそが、関心領域外で起こる物事への反応なのだと思います。
もっと残酷で、痛々しいものが観たいと思っている自分が、確実に存在していたのです。
自分の加害性こそ、常に監視下に置いておくべき「関心領域」と感じました。
やっぱりまた、忘れかけたころに再鑑賞しようかな